研究の封印と受験補習授業

【じぃじキャンバス14】

3年生進級前には、学年の180人が
就職か 進学か を意思決定しました。

1950年代(昭和30年頃)の
ワシの学年は

中学卒就職組と、高校進学組が
半々でした。



2学期の期末テストが終わると
自分を含む進学組の全員に

受験対策の補習授業が
7限目に組まれました。

それまで勉学で良きライバルの
仲良しIくんは、

家業を継ぐために
就職組を選択したので

先に下校しました。

その後ろ姿を
補習教室から目で追いながら、

学校の空気に
何か厭な
寒々したものを感じた

のを、今も思い出します。

(まともな人間感性の中学生だな・・)



補習授業には集中しましたが、

意欲を鼓舞するものでは
無かったです。



受験対策補習の2か月間は、
科学研究実験を封印しました。



働き続けた小学生時代が終わり、

好きなことに熱中できる
幸せな中学生になれた理由は、

貧乏脱却のために
一家転住の決断をした
両親と

中卒で就職した兄の
「お陰様」であります。



だから、

大人になって
自立して生きる職業については、

中2から考えていました。



まず、高卒後の
「大学進学」なんて、

お金持ちの子でないから
毛頭、考えなかったです。



そして

好きな理科が活きる職業は
「技術者だ」と考えて、

自転車で20分の
О工業高校染色科へ
進学を決めていました。



その旨を進路希望書に記入し、
学級担任に提出しました。



しかし、担任は
二度の家庭訪問で

就職目的の工業高校ではなく
大学へ進むための進学高校を

親に強く勧めました。



その度に、

我が家の貧しい家計状況と
技術者として自立して生きる理由、

好きな理科が学べる職業だと
自分が考えているから

と説明しました。



翌日、担任に職員室へ呼ばれ

名古屋市の

A工業高校・工業化学科の受験を
強く推薦されました。



担任の勧める理由は、

染色の学習以外にも

これからの社会で発展する
石油化学工業

高度な専門知識をも学ぶ
学科だから。



ワシも「なるほど」と納得し
A工業高校へ
願書を提出しました。



当時、
日本の近未来産業として
「石油化学工業」が持てはやされ、

中学生のじぃじ@は
化学の「光の部分」に惹かれて、

工業化学科への進学を
決めたのです。

画像の説明

ワシが二十歳になるころの
1959年には

石油化学製品の生産額が
輸入額を上回りました。



1960年代に
四日市コンビナートが
完成すると、

化学の「影の部分」

水質汚濁、異臭魚の出現
近隣住民のぜんそく
四日市公害訴訟など

中学生のじいじ@には、
予想出来ぬ惨事が起きたのですが…。



さて、無事
A工業高校へ入学すると

同じ中学の先輩が
教室へ訪ねてきました。



地元中学からは2年ぶりの
A工業高校進学者で、

(その時知ったのですが、当時
自分の入学したA工業高校は

県内の名門進学高校と
肩を並べる難関校だったらしい。)



うれしくて
後輩の君を励ましに来た

と、言っていました。



・・・へぇ。




次は
じぃじキャンバス15

「人生の羅針盤づくり」へと
続きます。